最初に全体像
楠木正行は、南朝の反攻を担った武将です。
父・正成が湊川で戦死した11年後、正行は紀伊で挙兵しました。河内から摂津へ進み、住吉・天王寺周辺で幕府軍を退けます。1348年、吉野を攻めようとする高師直軍を迎え撃ち、四條畷の戦いで弟・正時らと討死しました。敗戦だけを切り取ると、直前まで南朝の攻勢をつくった指揮官としての姿を見落とします。
楠木正行くすのき まさつら
- 立場
- 楠木正成の子。南朝方の武将
- 主な活動
- 1347年、紀伊で挙兵。河内・摂津へ進軍し、幕府軍と戦う
- 最期
- 1348年、四條畷の戦いで高師直軍と戦い討死
- 現在の記憶
- 小楠公御墓所、四條畷神社、飯盛山の像など
和田賢秀わだ けんしゅう
- 立場
- 四條畷市の解説では正行の家臣、勇将
- 主な伝承
- 正行の討死後も、高師直の首を狙ったとされる
- 最期
- 目的を果たせず、四條畷の戦いで討死したと伝わる
- 現在の記憶
- 伝和田賢秀墓と、歯神さんの信仰

飯盛山の楠木正行像。運営者が2026年に現地撮影。
楠木正行の功績と人物像
父の遺志を背負った少年から、自軍を率いる武将へ。
正行の父・楠木正成は南朝方の後醍醐天皇に従い、1336年に湊川で戦死しました。『太平記』は、出陣前の正成が桜井で正行を河内へ帰し、時機を待って朝廷に仕えるよう言い残したと描きます。この「桜井の別れ」は広く知られますが、まず軍記物語に記された後世の物語として扱う必要があります。
正行自身の軍事活動が大きく表れるのは1347年です。大阪市史編纂所の解説によると、8月に紀伊で挙兵し、河内から摂津へ進みました。11月には住吉・天王寺周辺で幕府軍と戦い、遠里小野付近の戦闘で勝利します。父の名声だけで語られる人物ではなく、南朝の軍を実際に動かした指揮官でした。
南朝の軍事力が弱まるなか、父の死から約11年後に兵を起こし、河内・摂津で幕府軍を退けました。翌年の敗戦だけでなく、その直前に南朝方の攻勢をつくった点が正行の実績です。
四條畷の戦いまで
なぜ正行は、高師直軍と戦ったのか。
一度の合戦だけを見るのではなく、前年から続く攻防と、幕府軍が目指した吉野への進攻を合わせて見ると、戦いの位置づけが分かります。
楠木正行
後村上天皇を中心とする南朝方で挙兵。河内・摂津で攻勢をかけ、幕府軍を脅かしました。四條畷では北上する軍を率います。
高師直・高師泰
足利尊氏を支えた幕府の有力武将です。研究では、師直らの出陣は当初から南朝の本拠・吉野への攻撃を予定した軍事行動だったことが指摘されています。
飯盛山西麓一帯
四條畷市は、現在の四條畷市と大東市にまたがる飯盛山西側山麓一帯を最後の決戦地と説明しています。古戦場の範囲には複数の見方があります。
- 1
1347年夏、正行が挙兵
紀伊から河内へ進み、南朝側の軍事行動を活発化させます。
- 2
住吉・天王寺周辺で幕府軍と戦う
11月の戦闘で正行軍は幕府軍を退けました。敵兵救助の逸話は『太平記』に記された物語として区別します。
- 3
幕府が大軍を河内へ送る
高師直・師泰らの軍は吉野への進攻を見据えて南下。正行軍はこれを迎え撃ちます。
- 4
1348年正月5日、四條畷の戦い
南朝では正平3年、北朝では貞和4年。正行、正時、和田賢秀らが戦死し、幕府軍はその後、吉野へ進みました。
12年を年代でたどる
湊川から四條畷へ。
父・正成が湊川で戦死
後醍醐天皇方の正成が足利尊氏らと戦って亡くなります。『太平記』では、その出陣前に正行へ遺志を託したと語られます。
正行が紀伊で挙兵
南朝方として兵を挙げ、河内から摂津へ進軍。父の後継者から、一軍を率いる武将として歴史の表舞台へ出ます。
住吉周辺で幕府軍を破る
大阪市史編纂所の解説では、遠里小野付近で激戦を繰り広げ、幕府軍を退けたとされます。敵兵救助の逸話は『太平記』にのみ見えるため、出来事と物語を分けます。
四條畷の戦い
正行・正時らは高師直軍と戦い、飯盛山西麓一帯で討死しました。賢秀もこの戦いで正行に続いて討死したと伝わります。
墓所、信仰、神社へ
墓石、大楠、賢秀の歯神信仰、1890年創建の四條畷神社など、二人の記憶は時代ごとに形を変えながら残されました。
和田賢秀の功績と人物像
限られた記録から、和田賢秀の実像を確かめる。
賢秀について、市の文化財解説が確かに伝えるのは、正行の家臣で勇将として知られ、1348年の四條畷の戦いに臨んだということです。正行が討死した後も一人で高師直の首を狙い、果たせず首をはねられたと説明されています。
一方、詳しい生年、経歴、日常の人柄まで断定できる史料は限られます。そこで、このページでは「正行への忠節を貫いた人物」と単純に美化せず、公式解説に残る戦場での行動と、後世に育った信仰を分けて紹介します。
正行軍が崩れた後も戦いを続けた勇将として語り継がれたこと。そして武勇の記憶が、恐ろしい逸話だけで終わらず、歯痛平癒を願う地域の信仰へ変わったことが、賢秀の地域史上の大きな足跡です。

現在の墓石は1831年建立。墓所は賢秀の討死地と伝わります。
史料を混ぜない
確認できる出来事と、語り継がれた物語。
伝承には、地域が人物をどう記憶してきたかという価値があります。ただし、史実として確定した出来事と区別することで、二人の姿をより誠実に理解できます。
公式解説・研究から確認
- 正行は楠木正成の子で、南朝方として活動した
- 1347年、紀伊で挙兵し、河内・摂津へ進軍した
- 1348年、正行らは四條畷の戦いで討死した
- 市の解説は賢秀を正行の家臣、勇将とする
- 両者の墓と伝わる場所が四條畷に残る
地域に受け継がれた二人の物語
- 桜井で父・正成が正行へ遺志を託した話
- 正行が川に落ちた敵兵を救い、衣服や薬を与えた話
- 賢秀の首が敵の喉または鎧に噛みついた話
- 墓所への祈願で歯痛が治り、歯神さんになった話
人物の記憶を現地で確かめる
墓所だけで終わらない、4つの訪問先。
二人の生涯、後世の顕彰、地域信仰を別々の場所で確かめると、石碑や社殿が単なる「古い場所」ではなくなります。

伝楠木正行墓・大楠
正行の遺骸を葬ったと伝わる場所。墓石の後に植えられた2本の楠が成長し、1本の巨木のように合わさりました。現在の石碑は1878年建立で、大久保利通の揮毫が刻まれています。

伝和田賢秀墓
賢秀が討死した地と伝わる府指定史跡。現在の位牌型墓石は1831年に建てられました。「歯神さん」の信仰が、戦場の武勇を暮らしの祈りへ変えてきた場所です。

四條畷神社
楠木正行と、正行に従った将士を祀る神社です。戦いから500年以上後の1890年に創建されました。中世の戦場跡そのものではなく、近代に人々が正行をどう記憶したかを示す場所として見るのがポイントです。

四條畷市立歴史民俗資料館
人物の物語だけでなく、四條畷の遺跡、交通路、暮らしの歴史を知る入口です。企画展や開館情報は変わるため、市公式ページで当日の展示と休館日を確認してください。
調べ方まで分かる資料案内
歴史資料、動画、SNSを役割で分ける。
人物像を深く知る資料と、現地の最新情報を知る発信は役割が違います。SNSの投稿だけで歴史を断定せず、公的資料や史料集と組み合わせて確認します。確認日:2026年10月4日。
史実の骨格を確かめる
大阪市史編纂所の『楠木正成関係史料』は、正成・正行らに関わる古文書、古記録、軍記物語を集成しています。国立国会図書館のレファレンス事例からは、戦場や墓所をめぐる複数の説と参考文献をたどれます。
『太平記』と歴史画を見比べる
『太平記』巻二十六では正行の戦いと最期を原文で読めます。国立歴史民俗博物館の「四條畷正行討死之図」は1883年の錦絵です。14世紀の同時代画ではなく、明治期に正行像がどう描かれたかを見る資料です。
楠正行の会の資料を読む
四條畷楠正行の会は、例会、現地学習、会報を通して正行と地域史を調査しています。学術論文と同じ扱いにはせず、地域で積み重ねられた論点や史跡情報を知る資料として読みます。
現地の動きと公開講座を追う
四條畷市の公式YouTubeでは、楠正行かるたなど地域文化の動画が公開されています。市公式InstagramとXは、史跡周辺の催しや市の発信を確認する入口です。歴史上の事実は市文化財ページや史料集で再確認します。
写真で見る、記憶の残り方
戦い、墓、信仰、顕彰。





出典一覧
四條畷の戦いと人物像を、資料から確かめる。
自治体の文化財解説、史料集、図書館の調査事例、博物館資料を掲載しています。本文で断定を避けた箇所は、史料間で記述が異なるか、軍記物語・伝承による部分です。確認日:2026年10月4日。